2021年6月から始まったシュシュサロン特別ゲストデーでのインタビュー企画も、本日10人目のゲストをお迎えして、最終回となりました。今回は「くがやま助産院( https://www.kugayama-josanin.org/ )」の代表で、助産師として活躍される伊藤敦美さんにお越しいただきました。伊藤さんは、助産師のみならず、看護師と保健師の資格、そして母乳育児を支援する専門の資格「国際認定ラクテーションコンサルタント」の資格をお持ちで、産前産後のお母さんをケアをする助産院を営んでいらっしゃいます。丁寧な母乳育児相談を通じて、母と子が納得できる子育てのための支援をされ、シュシュの「赤ちゃんカフェ」の「何でも育児相談」という時間でも、赤ちゃん育児の相談を受けていただいております。伊藤さんご自身も3人のお子さんの子育て中で、育児と仕事を両立するワーキングマザーです。若くして3つの国家資格と、母乳育児支援専門の資格を取得され、ご家族を支えながらも自立して生きる伊藤さんのこれまでの人生をお聞きします。
ー伊藤さんは助産師でありながら、看護師と保健師の資格もお持ちで、広い視点を持って医療ケアにあたっていらっしゃるかと思いますが、この3つの医療系の国家資格を取得されるということ自体、ものすごい努力を重ねられたのではないかと想像します。それだけの資格を、どのようにして取得されたのでしょうか。
高校卒業後、大学の看護学専攻に進学しました。4年間勉強や実習を重ねて、3つの資格の必要単位を取り、国家試験を受けて免許を取得しました。国家試験といっても、看護系資格は、他の国家試験と比較して高い合格率です。それぞれの試験はすごく難しいというわけではありませんが、3つの資格をいっぺんに取得しようとする忙しさという意味での難しさがあると思います。この3つの資格は、それぞれ専門性は異なりますが、まずは正看護師免許を取得してからでないと、助産師や保健師の資格を得ることができません。そして、助産師資格は女性しか取得できないと法律で決まっていて、正常な分娩であれば、医師の指示がなくても自分の判断で介助できる、というところが大きな特徴です。そんなふうに、資格を取得する順番が決まっていたり、女性に限定された資格だったりと、決まり事はありますが、資格を取得するための学ぶルートは、いろいろあるんです。昔は高校で看護学科が設置されているところがたくさんあって、中学卒業後にそこで学べば、准看護師の受験資格が得られました。今は高校で看護学科を設置しているところは少なくなってきて、普通科の高校卒業後に看護専門学校や医療系の短大や大学に進んで正看護師の受験資格を得る人が多いかと思います。そして、助産師と保健師資格は正看護師試験合格後に別の専門学校や短大に進学したり、大学へ編入学して、受験資格を得る人が多いようです。そんなふうに、様々なルートがあって、現場ですぐ働けるように実技に重点をおいて学んできた人、大学で学問として理論を重視して学んできた人、看護師として働きながら助産師や保健師の資格試験に励む人、一度社会人を経験してから看護師を目指す人など、いろいろ方がいらっしゃいます。私の場合は、3人姉妹の長女で、とにかく両親から、”なるべくコストがかからない最短ルートを進んでほしい”と何度も言われていたので、高校卒業後は国立大学に進学しました。そこでまずは看護師資格を取得して、その後保健師資格、そして助産師資格も取れるカリキュラムを選択して、4年生の卒業までに3つの資格を受験して、合格を果たしました。
ー現役で国立大学へ進学して、4年間で3つの国家資格に挑むというのは、並大抵のことではないですよね。どうしても将来その仕事に就きたい、という強い気持ちがあったのでしょうか?
もちろん、医療の仕事に就きたいという自分の希望を強く持って、医療の仕事に就いて働くことを意識して勉強したり、資格取得を目指したりしていました。その一方で父から「自立して働ける女性になったほうがいい」という言葉をかけられたことも覚えています。子どもの頃は「自立する」という意味がよくわからなかったのですが、今自分が家庭を持って、子育てをしながら助産師としてのキャリアをいかして、やりたいように生きていけるようになったのは、そんな父の言葉があったからかもしれません。それに、私が子どものころ、母や祖母も本当によく働いていて、「女性が働く」ということをとても自然に感じていました。
ー子ども時代のお話が少し出てきましたが、幼少期はどのような生活を送っていたのでしょうか?
私の出身は栃木県で、母の実家が営む銭湯の家で育ちました。母は幼稚園教諭と保育士免許を持ちながら、幼稚園で働いていて、父は市役所の職員でした。私が生まれた当時、まだ女性すら育休を取得するのが難しい時代で、母は出産して3ヶ月で職場復帰して、夜の8-9時まで働いていました。当時は男の人が家事を積極的にやるのは珍しかったかもしれませんが、母が忙しかったために、父も様々な家事や育児を担っていました。それに、まだ若かった祖母が私をおぶって銭湯を切り盛りしていたり、祖母が忙しいときは、近所のお茶の先生に私を見ていてもらったり、お肉屋さんは夕飯にと唐揚げを持ってきてくれたりして、いろいろな人に囲まれて助けられて過ごしていたので、母が仕事でいなくても、父や祖母や近所の皆さんのおかげで、寂しい思いをせずに過ごしていました。みんなで助け合って生きるコミュニティで幼少期を過ごしていました。
ーご近所のいろんな方々に助けられて育った幼少期だったんですね。お母様も忙しい中きっと助けられたのでしょうね。
そうですね。でも母は母なりに、私と一緒に過ごす時間をもっと増やしたいと思ったのか、学年で一番最後の誕生日である4月1日生まれの私を、2歳になったばかりで自分の幼稚園の3歳児クラスに入園させました。もともと他の子達と1学年差がある上、早生まれで、みんなについていくのがやっとで、毎日焦っていました。それに、先生として働く母を見て、おさな心に、あまり”お母さん”に話しかけたら良くないだろうな、なんて思って、母の姿を遠目に見ていた記憶があります。今考えれば、幼稚園の先生が、自分の職場の3歳児クラスに2歳になりたての自分の子を入れること自体、ありえないと驚くことですが、母にとってはおおらかで理解のある職場だったのかなと思えます。なかなかおもしろい社会生活デビューだったと、今は思っています。
ー幼児の場合、少しの月齢差でも成長度合いが変わってくるので、それは大変だったと想像します。でもお母様としてはそばで育てたい思いがあったのでしょうね。その後、小学生になるころには、妹さんも2人生まれたんですよね?
はい。私が小学校に上がるころには、3歳と6歳差で妹たちが生まれていました。母は3人子どもを抱えながら同じように仕事を続けていくのが厳しくなったのでしょうか、夕方には帰宅できる仕事に転職しました。そして、その頃には祖母の銭湯から離れたところに引っ越して、家族5人での生活が始まりました。
ー小学生のころには、だんだんと医療に興味がわいてきたのでしょうか?
そうですね、そのころとても仲の良かった友達の家が、外科クリニックを営んでいて、よくクリニックに遊びにお邪魔していたんですが、怪我をしたら処置に使う「油紙」という油臭いシャバシャバした紙が置いてあって、私はその匂いがすごく好きでした。クリニックに漂う消毒薬っぽい、独特の匂いも大好きで、私にとって「病院」という空間がとても居心地が良かったんです。ちょっと変わった子ですよね…。テレビ番組で、「大病院24時」なんていう、病院密着の番組も大好きで、血が苦手な妹に文句を言われながらも、私は食い入るように見ていました。祖母が入院したときも、お見舞いに行く病院内がすごくいい匂いに感じて、私はここにずっといたいなぁ、と思ったんです。だから、人助けがしたくて看護師や助産師を目指したというよりも、病院という空間に居心地の良さを感じて、医療の道を目指した、と言っても過言ではありません。
ーそれはユニークなお子さんですね。人助けより…、というお話でしたが、事前の打ち合わせでは、小学校で障がいのある友達の手助けをしていたとお聞きしましたが。
私の小学校は、たまたまですが、脳性麻痺やダウン症や場面緘黙症の子など、多様な子が在籍する学校でした。みんなの前では声を出せないお友達が、私の耳元で困っていることを言ってくれて、私がそれを聞いて、先生や友達に用件を伝える仲介役をよく引き受けていました。ちょっとした支援やサポートがあれば、障がいがあっても通常学級でやっていける子がたくさんいて、困っている友達を手助けすることが日常的に自然にできる環境でした。その経験は、今の仕事につながっているかもしれません。
ー小学生時代の遊びや学校での経験が人生を方向づけたのかもしれませんね。その後、中学校生活はいかがでしたか?なにか部活などに励まれていましたか?
中学校では吹奏楽部に入部しましたが、熱心に部活をやるタイプではなかったです。ただ進路はだいたい決まったので、目標へのチャンスを逃さぬよう勉強はがんばっていたかなと思います。
ーそうでしたか。勉強に一生懸命取り組まれて、高校では本格的に医療の道を目指し始めたのでしょうか?
そうですね、高校生になる頃には、医者になるのもいいかな、と思うこともありました。医者を目指せば、いろいろと選択肢が広がると思ったのですが、それには本当に大変な勉強をしなければならないし、浪人も覚悟するとなると、ためらいもありました。でも、それよりも私は看護師になってみたいな、と思ったんです。そのころは助産師や保健師の仕事まではまだよくわかっていませんでしたが、とにかく看護師になろうと、できるだけ最短でコストがかからない国立大学の進学先を探しました。
ーそれで、国立大学に現役合格されたんですね。でも4年間で看護師と助産師と保健師の資格を取得するということは、大学生活でサークル活動して遊ぼう、なんていうことはできませんよね。勉強、勉強の毎日だったのではないでしょうか?
資格を取る目的が色濃い学部なので、一般の大学生とは少し違っていたかもしれません。それでも、1年生のころは他の学部生と同様に一般教養を学んで、学校終わりにスキーに連れて行ってもらったり、学生らしく楽しく遊んだ思い出もあります。それに、ニュースでエイズ孤児やベトナム戦争のことを聞いていたので、国際問題に関心を持っていました。大学の医療ボランティアサークルに所属して、長期休みには医学部の先輩たちとタイのエイズ問題を知るために現地のホスピスに行ったり、ベトナム戦争の枯葉剤の影響を受けた人達の施設に行ったりしました。そういう経験をして、いつか青年海外協力隊で看護師として活躍するのもいいなと思うこともありました。勉強はきつかったですが、将来についてたくさん想像した学生時代を送りました。
ーいろいろと興味や関心が広がった時期でもあったのですね。でも最終的に3つの資格を取るというのはかなりハードスケジュールですよね。机に向かう勉強以外でも、実習もありますよね。
はい。まず、看護師になるために実習を受けましたが、そのさなかに、助産師にもなれるものならなりたい、と思いました。医師を目指す場合は、病気の種類や臓器によって、実習が分かれていますが、看護師を目指す場合は、「基礎看護」「成人看護」「老年看護」「母子看護」「地域看護」などと、トピックによって実習が行われています。その中で、「母子看護」の実習を受けたときに見た助産師さんの背中が、とても格好良かったんです。医師と同等に話し合いをして、どういうふうに出産をすすめるのか、どうしたら出産の間に問題が起こらないかを、自ら計画していました。看護師の場合は、もちろん自立した職業ではありますが、医師の指示に従って処置をします。それに対して、助産師は自ら医療行為を計画立てて進めていけるし、果ては開業できる、というところもとても魅力に感じました。緊急帝王切開になった妊婦さんのストレッチャーに助産師さんも飛び乗って処置に当たる仕事ぶりがとても輝いて見えました。その場その場で臨機応変に対応して、命を紡いで、お母さんの体調を元気に戻してあげる助産師に憧れて、助産師資格も取ろうと、チャレンジを始めました。ただ、看護学専攻100名中、10名しか推薦が得られない、とても狭き門でした。なぜなら、助産師資格の取得には、赤ちゃんを10人分娩介助しなければならなくて、大学として、多くの母子に実習のための協力をいただく手配をするのはとても大変なことだからです。地方の少子化も相まって、大学のある県内だけでは実習ができずに、近隣の県に実習のために出向かなければならない人もいました。私は幸い県内の病院での実習でしたが、1ヶ月間、周産期医療センターの分娩室で寝泊まりしていて、毎日『天空の城ラピュタ』のワンシーンのように「40秒で支度しな!」というような状況でだいぶ鍛えていただきました。そして、きっとなんとかなる!と思いながら、資格取得まで負けん気で、持ち前の過集中を活かして勉強して、なんとか合格しました。
ーすごいですね。その間、看護師と保健師の資格試験の勉強と、実習もこなされているんですものね。
助産師の話が膨らみましたが、4年生のときは、看護師・助産師・保健師の実習がそれぞれ2回ずつ、それに卒論を書いて、就職活動をして、3つの国家試験を受けました。あまりに忙しくて茫然自失になることもありましたが、同じ助産学専攻の友達と、やるっきゃないよね、と10人で鼓舞して、学校に泊まったりもしながらなんとかやっていきました。その時の経験が、その後、仕事で踏ん張らなければならないときの土台になっています。
ー勉強の量もさることながら、スピードもものすごく速くこなさなければならなかったでしょうね。卒業後はどうされたのでしょうか?
首都圏の大学病院に就職しました。そこは大学病院にしてはめずらしく正常産(順調で正常な出産)も多くて、地域医療も担いながら、分娩が年間1,000件もあり、ちょっとした重症事例に対応する中核病院でした。ハイリスクな出産を専門で請け負う病院ではありませんでしたが、件数が多かったので、幅広い症例を経験しました。そこの勤務体制は、日勤が8-17時、準夜勤が17-2時、深夜勤が0-9時という3交代勤務で、日勤の後に仮眠を取ってから深夜勤をすることもありました。
いろいろな日がありました。勤めて数年目の大晦日の夜勤で、一気に7人のお産に立ち会うことになって、それはもう大変な夜でした。自然分娩の予定のお二人が重ねて緊急帝王切開になって、そのうちのひとりが大量に出血してしまって、電話がコールセンターのように鳴り響いていました。もちろんそれだけではなくて、妊婦さんと産後の母子も30組くらい入院していたので、入院している方をみる仕事もありました。夜勤の3人の助産師ですべてに対応して、なんとか無事に乗り切りました。そういう日もあれば、出産する人がほとんどいなくて、余裕を持って対応できる日もありました。いつどうなるか分からない賭け事みたいな仕事なので、緊急事態が発生して慌ただしくなると、みんなパッと気持ちを切り替えて、忙しくなればなるほど気持ちが燃えたぎってくる、みたいな感じでした。忙しい夜勤もどこか楽しんで仕事をしていて、無事に乗り切れて迎えた朝には、良かったなぁとホッとしました。
ー若くて体力も気力もみなぎっているから、激務にも取り組めたのかもしれませんね。その当時は独身でいらっしゃいますよね?ご結婚も20代でされたとのことですが、そんなに忙しい毎日でどこに出会いがあったのでしょうか?
夫とは、学生時代に出会っていました。でもお互い卒業後には私は首都圏の病院に、夫は実家のある北海道で就職して、遠距離恋愛が続きました。私は雪の生活が苦手なので、とても北海道には住めないと思って、首都圏で就職しましたが、彼とは遠距離で忙しくても、もしご縁があれば、という気持ちでいました。
ー仕事が充実している一方で、遠距離恋愛を続けていて、結婚や出産についてはどんなお考えだったのでしょうか。
そうですね…、私はいずれ海外で働いてみたいと思ったり、周産期の助産師として早く一人前になりたいと思ったり、仕事を始めた頃はいろいろと野望を持っていました。そして、もし、北海道にいる彼と結婚したり出産したりすると、そういうことが叶わないかもしれない、と思っていました。でも、人生の岐路というのはあるもので、がむしゃらに働き続けて三年目くらいのときに、私はこれでいいのだろうか?という気持ちばかりになってしまいました。大学卒業のときに、先生からも「専門学校などで現場の即戦力になる技術を学んだ同じ新人と比べると、能力の差を感じることがあると思うけれど、10年続けていれば、大学で学問として学んだことが活きて、追い越せる日が来るから、長い目で見て成長していきなさい」と言われていました。でも、三年目にはこういう判断ができるようになりたい、こういう助産がしたい、という像に全く到達できていない自分に嫌気がさしていました。これ以上のキャリアは描けないのではないかと思いました。できない自分を目の当たりにしたりするのは辛いことで、「もしかしたら自分はこの仕事が向いていないのかな」と思ったり、お産が思わぬ方向に進むと、「自分がもっとうまく対応できていれば、私が担当しなければ、もっとスムーズに出産できたのではないかな」、などと思ったりして、自分を責めることもありました。それでも、毎日が忙しく回り、新しいことも次々と起こるので、問題の根源がどこにあるのか、本当に自分に問題があったのか、きちんと自分の中で整理して、正当な評価ができなくなっていました。そういう日々が続いて「一度リセットしたい!」と思ったんです。そのころ、彼とは付き合い始めて8-9年経っていたので、雪が苦手だけれど彼のいる北海道に行こうかな、結婚しようかなと思って、仕事を辞めて北海道へ行きました。そして、結婚して、新たなスタートを切ろうと北海道でも夜勤のある病院に勤め始めました。でもそこでも変に完璧主義になってしまって、自分の思うように事が進まず、起きたことにうまく折り合いが付けられなくて、また苦しくなりました。それは私の人生において大きな挫折でした。
ー頑張って頑張って仕事に取り組んできたのに…うまくいかなくなってしまったのですね。その後どうなったのでしょうか。
私がモヤモヤを抱えながら仕事をしていたある日、夫が「東京で仕事がしたい」と言ったんです。それで私は仕事を辞めて、夫についていくことにしました。正直「これで肩の荷が下りた!」という感覚を味わいました。それまで、猛烈に働いていたので、ちょっと休んでみようと思って仕事を辞めて、東京に行ったころに、ちょうど一人目の子どもを妊娠していました。妊娠期は眠くてだるくて、こんなに休んだことは今までにないと思うほど、アナグマのようにずっと籠もって寝ていました。しっかり寝る生活を続けたら、体がすごく元気になりました。これを機に、主婦としてゆっくり子育てをしてみようかな、なんていうことも思いました。
ー仕事に復帰することは考えなかったのですか?
もちろん、いずれは、と考えていました。私は休職や産休ではなく、一度離職してしまったので、子育てと仕事をどうやって両立しようか、どうやってもう一度立ち上がろうかと考えなければなりませんでした。産後、一人目の子育ては分からないことだらけで、子どもを育てながらの仕事とはどんなカタチになるのか、これまでの仕事の仕方を思えばなかなか想像できず、ずっと悩んでいました。長女はとても活発で、夜によく起きる子で、私は睡眠不足の日々となり、日中ぼやっと過ごしていることが多くて、このままでは私も長女も自分らしい生活が送れないと思い始めました。娘が1歳3ヶ月になったころ、ようやく家での子育てに踏ん切りを付けて、私は保健師の資格で保健センターの非常勤の仕事に就きました。長女は保育園に入れましたが、預けるときによく泣いて、保育園でも機嫌が悪いと言われていたので、私は預ける際に後ろ髪をひかれる思いでいました。ある時、信頼できる保育士さんに、「お母さん、そろそろ大丈夫だから思い切って仕事に出かけて」と言われて、そこからスイッチが切り替わって、堂々と預けて仕事に行くようにしました。そうしたら、子どもも保育園で機嫌よく過ごせるようになって、夜もちゃんと寝るようになったんです。後ろ髪をひかれながら、なにか親の心配や後ろめたさを子どもに置いてきてしまったのだな、とそのとき思いました。自分は、多くの大人を信頼して成長してきたという経験をしているにも関わらず、激しく泣く娘を見て、仕事に行くことに対しても、預けることに対しても、負い目を感じていた、と気づいたのです。
ー病院ではなくて、保健センターでの仕事に就いたんですね。それまでと全然違うお仕事ですよね。
はい。でも、すごく学びがありました。私はそれまで病院でお産の仕事に携わってきて、事故無く出産できるようにすることばかりを考えていましたが、出産を終えて退院してから、無事に子育てができるよう支援する、ということも、とても大切な分野だと気づきました。私自身、産後困ったこともあったので、保健師が些細な子育て相談に気軽に応じてくれることは、とても心強いことだと実感します。保健センターでの経験で、産後の母子に対する支援がこれからの私にできることなのでは、と思い始めました。病院で助産師としてのキャリアが中途半端に途絶えてしまったという悔しい思いがどこかにありましたが、またかつてのように働くのは、家族のことを考えると難しく、諦めていました。でも、それ以上に、産後の分野で生きていきたい、と思うようになったんです。それで、施設はまだ構えていませんでしたが、産後のお母さんとの関わりを専門とした、「開業助産師」になることを決意しました。
授乳のアドバイスをする国際認定資格です。WHOが授乳戦略や栄養戦略を提言していて、それに基づいて母乳育児がうまくいくようサポート援助する資格です。日本には1,000人くらい資格保有者がいて、助産師、看護師、保健師の他、心理士や小児科医などが専門性を高めるために取得しています。これまで、授乳援助というものは、過去の経験や事例に基づいた支援が行われてきました。でもこの資格は、WHOのエビデンス(根拠)に基づいた情報提供ができることを特色としています。たくさんの類似した資格がある中、私がこの国際認定資格にこだわったのは、エビデンスに基づいた情報提供によって、お母さん自身の主体的な選択を支えてあげることができて、中立的な立場で支援できるのではないか、と考えたからです。
ー私事ですが、出産して仕事を始める前に、育児相談の機会に卒乳(赤ちゃんがおっぱいを飲むのをやめること)について、伊藤さんに相談をしたことがありました。子どもが食べられるようになった食事量を根拠とした卒乳のアドバイスをいただきましたが、伊藤さんでなくても、国際認定ラクテーションコンサルタントの資格をお持ちの方には、そういう相談を受けていただけるということでしょうか?
はい、もちろんお受けします。「卒乳させたい」という相談を持ちかけられるとき、ほとんどのお母さんは「もうおっぱいをあげない」ということを念頭においています。それは当然の考えですが、ラクテーションコンサルタントとしては、まずは、授乳のタイミングや悩み、卒乳したい理由、そして日常生活まで、詳しく聞き取ります。それと、お子さんが食べられるようになった食材や量から、歯茎で噛み取る力や舌の動き、そして飲み込みの成長を予想して、食事の内容や調理方法や回数をご提案するんです。さらに、相談の横で遊んでいるお子さんの様子も観察して、興味を持つものや体の動きから、お子さんの体の成長やサインをくみ取ります。そこからお子さんの好きなことを見つけて、それを活かした生活環境を調整してあげると、お子さんはグッと成長します。そうして、お子さん自身がおっぱいを飲まなくても大丈夫、と思える道筋を見いだせるようにしていくんです。時間がかかったとしても、お子さんが自分で卒乳を選択して成長できたことをお母さんも実感することは、その後の親子関係をより良くしていくものだと私は信じています。これは卒乳に限ったことではありません。無理せずちょっとやればできることを見つけて、そこを伸ばしていって、最終的に目標を叶える、という親子の成長プロセスに伴走するのが、ラクテーションコンサルタントでもある私の仕事なんです。…とは言いつつも、私も我が子相手となると、客観的に見ることができなくて、親としては失敗、反省の連続ですけれどね…。
長女が1歳のときは、初めての育児で大変だったので、2人目なんて考えられない、と思っていましたが、2歳半くらいになったら、また赤ちゃんが欲しくてたまらない気持ちになり、自分でも驚きました。仕事と家庭のバランスがほどほどの良い状態になったこと、娘にたくさん信頼できる大人やお友だちができたこと、助産師としてのキャリアが再構築できた実感がもてたことが、気持ちに変化をもたらしたのかもしれません。それで幸いにも2人目、そして3人目と順調に妊娠・出産に至りました。3人目は今週からイヤイヤ期が開幕しました!3人いると、子育ての慣れなのか、1人目の入園は1歳3ヶ月になるまで迷いましたが、2人目のときは10ヶ月で、3人目なんか4ヶ月で仕事復帰しました。育児をしながらも前に進むことができるのは保育園のおかげです。それに、保育園とのやりとりでは、仕事に反映できるヒントをたくさんいただいています。先生からのあたたかい声がけひとつで、お母さんは元気が出たり、頑張ったりできますし、逆にちょっとした指摘で、落ち込んだり、子どもに余計にプレッシャーを与えてしまう、という気付きもあります。私のもとには、悩んでいるお母さんが相談に来られますが、同じ親としてその気持ちに共感する一方で、客観的に見ながら、まずは今できていることを一緒に確認して、自信を持って次のステップに進んでもらえるよう、心がけています。私自身も仕事を通じて、自分の子どもを見る目を変えたり広げたりして、自分自身の子育てに還元することも多々あるんです。もし今も分娩に関わり続けていたら、私はそこにエネルギーを集中しすぎて、しっかり子育てに向き合えなかったかもしれないと思えるので、この産後ケアの領域でアイデンティティを確立できて、本当によかったなと思っています。
ーやりがいのある仕事と子育ての両立が取れているんですね。
そうですね。幸いにも自分らしく働ける場所を見つけられましたが、仕事としてはまだまだ取り組まなければならないこともたくさんあります。出産されたばかりのお母さん達の中には、このコロナ禍で、産後のケアを十分に受けられなかったり、頼れる人がいなかったりして、オーバーワークになっている方がたくさんいます。特に、産後は体が回復していないまま、生まれたばかりの子どもを抱えて、小さな決断を多様にこなさなければならず、鬱になりやすくなる時期です。そんな方々が、誰かを頼ろうと決断すること自体にもハードルがあるし、自分で頼れるところを探す作業はさらに大変なことです。私はそれを待っているだけではなくて、アウトリーチで支援が必要な方々を見つけに行って、少しでも負担を減らしてあげることをしなければならないと思っています。そして、他者と協働して子育てをすることで、状態が良くなったり、前進できるという感覚を得てほしいと考えています。なぜなら、それは産後の時期だけの話ではないんですよね。うちの長女は今9歳ですが、学校はもちろん、学童の先生や地域の方々の助けを得て育っています。大きくなっても、周囲のご理解やご協力をいただいて育っているんです。
ー地域に伊藤さんのような方がいることが、産後のお母さんたちにはどんなに心強いことだろうと思います。伊藤さんご自身は、まだまだ現状に満足していないようですが、さらに将来の展開も考えていらっしゃるのでしょうか?
女性の社会を支えるのが助産師の仕事なので、いずれは、更年期や老年期の女性についても勉強してケアできれば、と考えています。また、今、学童期の子どもの母になって、子ども向けに性教育も勉強しなければ、と思い始めました。自分のライフステージが進んでいくとともに、興味が広がっていきますが、1日は24時間しか無いので、勉強がなかなか追いつきません(笑)。
ー学生の頃からたくさん勉強を重ねてこられて、きっとこの先も学びのペースを崩さないのだろうと思いますが、今まさに学びの真っ只中にいる中高生へ、伊藤さんからのメッセージをいただけないでしょうか。
私は両親から「自立した女性になること」「社会の役に立てるといいね」というメッセージを受けて育ちました。役に立ちたくて仕方ない私は、この仕事に就きましたが、自分は役に立てていない、役に立てていないから価値がない、と思い詰めて苦しい時期も長くありました。現在、私はもともと自分が思い描いていた助産師像とはずいぶん違ったりもしますが、それでも助産師であり続けています。そんな経験から、私はあえて「何者でなくても別にいいよ、必ずしも人の役に立たなくてもいいんだよ」と我が子達に伝えています。社会の役に立てたらそれはとても素晴らしいけれど、そういうプレッシャーを持たなくても、自分らしくあればいい、と思うんです。一方で、将来への選択肢はどんどん広げてほしいです。そのためには勉強はしたほうがいいし、勉強は裏切りません。そして、いろいろな経験をすることも大切だと伝えたいです。
ーありがとうございます。今を輝く伊藤さんの人生を支えている宝物を、最後に教えてください。
宝物は、これまでに一番頑張った、助産師試験の時にまとめたノートです。4冊あって、今も大切に残しています。大学4年間はものすごく追い込まれていましたが、ノートを作ることで自分らしい勉強方法を確立できて、ここまで自分がやりきれた、という証になっています。今でも、ちょっと挫けそうになったらそれを見返していますし、長女の手の届くところに置いていて、手にとって何かを感じてもらえたらと思っています。
ーご自身で作り上げた、世界で一つの宝物ですね。本日は素晴らしいお話をありがとうございました。
【会場のみなさんからの質問】
ー伊藤さんのキャリアについての質問です。助産師さんの中には分娩に直接関わらなくても、病院などの組織に所属して、育児相談を受けるなどの活躍をされている方もいらっしゃいますよね。伊藤さんは組織に所属せず、フリーになって、今は助産師事業者として産後ケアの仕事をされていますが、その道を選ばれたプロセスやそういう働き方をするやりがいを教えてください。
保健センターで非常勤で働いた後、組織に就職して、産後ケア専門の助産師として働きたい気持ちもありました。でも、長女を保育園に預け続けるための入所資格や選考基準点のこともあって、時間をかけて就職先を探したり、アプローチするのが難しかった、という理由がひとつにあります。とにかく呼ばれたらそこへ行って、やりたかった産後ケアの仕事をする、ということを繰り返していました。今はご縁があった街の小児科での産後ケアに携わっているので、小さな組織に属しているとも言えますが、結局は大きな病院などに就職し直すことがないまま、今の働き方になりました。小児科では、医師と一緒に産後のデイケアサービスを開発して、地域に密着した活動ができていることに、やりがいを感じています。それに、ここ10年くらいで、産後鬱などへの理解と危機感が一般にも広がって、行政もそうした産後ケア活動を積極的に助成するようになってきたので、私のやりたいことと時代がマッチしたのは幸運です。今はそうした活動にすごくやりがいを感じていますし、まだ子育て真っ最中なので、自分でスケジュールを組んで、子どもの保護者会や学校行事に参加できる働き方ができているのも良かったと思っています。
ー私は今度2人目を出産する予定ですが、1人目の育児で抱えた悩みを繰り返したくなくて、助産師さんに相談することにしました。でも最初に相談した助産師さんからは、逆に気持ちが辛くなるようなことを言われてしまって、今は違う助産師さんに相談しています。私は産前に自分に合う助産師さんを見つけることができましたが、産後に問題が起きてから探し始めることになっていたら、すごく大変だったのではないかと想像するんです。産後はメンタルが不安定になるので、みんな妊娠中から自分に合うかかりつけの助産師さんを見つけられたら、すごくいいのではないかと思っています。
そうですよね。私達、地域で活動する助産師も、積極的に妊婦さんにアプローチして繋がりたいと思っています。でも、仰るとおり、なかなか繋がることができていないのが現状です。経産婦さんは、それまでの妊娠出産で自分の課題を知っていて、産前から助産師の関わり方や活用のイメージを持っていただきやすいのですが、初産婦さんは産後のイメージよりも、まずは目の前のお産について、どう向き合うかということで頭がいっぱいです。当たり前ですよね。その上、今は出産ぎりぎりまで働いている妊婦さんが多くて、普段は病院の検診で手一杯で、助産師を探すところまで余裕が無い方が大勢いらっしゃいます。助産師の方は、コロナ禍で動きにくくなっていますが、東京都の委託を受けて、助産師会として相談会を開いたり、オンラインでのアプローチもしています。それでもまだまだ必要な方にサービスが行き届いていないことを感じています。私もどうしたらもっと妊婦さんと繋がることができるか、これからもっと考えていきます。
その他、個人的な育児相談もありました。
伊藤さんはシュシュの赤ちゃんカフェ(0-1歳児親子参加)で毎月1度、育児相談会を開いています。スケジュールを是非チェックして、ご来場ください。
伊藤敦美さんの助産院「くがやま助産院」
https://www.kugayama-josanin.org/
ケアメニュー
・授乳に関する全般的な相談(うまく吸えない、ミルクとのバランス、各種トラブル、卒乳、断乳など)
・離乳食相談
・赤ちゃんの相談、ケア(体重増加、発達、お世話全般)
・抱っこや抱っこ紐の相談
・産後デイケア
・復職相談
・遺伝に関する全般的な相談(出生前診断、すでに診断がついた後の相談、支援や養育についての相談など)
伊藤敦美さんが産後ケアにたずさわる小児科「ひだまりクリニック」
https://hidamariclinic.jimdofree.com/